　真っ白なキャンバスを前に、一人の少女が真剣な表情で絵筆を走らせていた。強く硬く握られた筆の動きは、徐々に紙の上に花の輪郭を表し、段々と色付き、やがてそれは柔らかな花束の絵となった。中央で堂々と咲き誇るピンクと白、2種類のバラ。その横に添えるように置かれた淡い黄緑の百合水仙。下を支えるのはオレンジのガーベラ。アクセントとして散らされたのは水色のカスミソウ。思わず息を呑む程に、その花束は誰にも文句の付け所なく可憐で美しかった。
「はー……。凄いわねー……。見事な出来栄えだわ……」
「見事ぉ？どこがぁ？」
　ただ一人、描いた本人である丹羽灯莉を除いては。

　その日、あたし、定盛姫歌は、ルームメイトである灯莉にとある絵の課題について相談があると言われ自習室に訪れていた。課題のタイトルは『花束を描く』。『花束』ではなく『花束を描く』までで課題名らしい。その課題に応えるように、灯莉は美しい花束を描いた。だというのに。
「こんなの、ぜぇーんぜん見事じゃないよ！ むしろ最低最悪につまんなーい！ ぼくが描いた絵の中でワースト1位のつまんなさだよっ！」
　当の灯莉は不満タラタラと言った表情で、自らの絵を酷評する。
「何でよ……。すっごく綺麗じゃない」
「それだけじゃん！ 綺麗な花束を見たいんだったらかなほせんぱいとたかにゃんせんぱいにお願いして二人が育てたお花を摘んだ方が、よっぽど綺麗だよ！ それじゃ意味ないの！」
　頭を抱え、子供のようにうーうーと唸りを上げる灯莉。しかしそんなことを言われても、あたしの目には相変わらず見事な花束にしか映らない。
「えぇ……？ いや、本物の花に絵が敵わないのは仕方ないことじゃない……？」
「そういうことじゃなくて！ 本物とか偽物とか関係なく、ぼくはもっと自由に！ 楽しく！ そしてぼくにしか描けないぼくだけの絵を描きたいの！ こんなつまんない絵じゃダメダメだよぉ！」
　尚も大きく声を張り上げ主張する灯莉に、あたしは呆れて問い掛けた。
「じゃあ、灯莉が描きたいように描けばいいじゃない。灯莉が描きたい花束って、どんなものなの？」
　そう聞いた瞬間、ジタバタと藻掻いていた灯莉の動きがピタリと止まり。
「……わかんない……」
「え？」
「だから！ わかんないの！ 描きたい絵がわかんないなんて初めてだよ！ どうしようぼくスランプになっちゃったのかな助けて定盛ー！」
　先程とは一転、泣きながら助けを求めしがみ着いてきた。あたしは自分の制服が灯莉の涙と鼻水でグチョグチョになるのを眺めながら、思わず呟いた。
「……なるほど、コイツは重症ね……」

　その後、あたしは泣き喚く灯莉を何とか引き剥がしたのち、カフェテリアで2人分のホットココアを買ってきて、自習室で未だクスンクスンと鼻を鳴らす灯莉に手渡したのだった。
「……どう？ 少しは落ち着いた？」
「うん……」
「そう。じゃあ、話してみなさいな。一体何が灯莉をそんなに追い詰めたのか」
　そう促すと、灯莉は腫れぼったい目でこちらを覗きながら、俯き加減でポツポツと喋った。『花束を描く』という課題が1週間前に出たこと。色々な描き方を試したが、1つとして納得のいくものは出来なかったこと。考えれば考えるほど、自分の描きたいものがわからなくなってきたこと。
「……それで、課題の期限はいつまでなの？」
「明日……」
「明日ぁ！？」
　思わず椅子から飛び上がった。
「明日って、もうあと1日しかないじゃない！ どうするのよ！」
「うえぇ〜〜ん……どうしよう定盛ぃ〜〜……」
　脳裏に、昨夜の灯莉の姿が思い浮かぶ。『……定盛に、相談したいことがあるの。絵のことなんだけど……いいかな……？』普段の能天気で溌剌とした表情とは全然違う、暗く沈み切った顔。灯莉のそんな顔なんて、見たくなかった。だから。
「……どうにかするしかないわね！」
　灯莉を、そして自らを鼓舞するようにあたしは拳を突き上げた。

「「……というわけで、力を貸してください！！」」
「はい、勿論いいですよ〜」
「話が早い！？」
「さっすがふじのんせんぱい！」
　数分後、あたし達は先輩であり灯莉と同じ絵画学科である石塚藤乃様の元にアドバイスを貰うために来ていた。やはり餅は餅屋、絵画のことなら絵画学科の人に聞いてみるのが一番早いと踏んだからだ。
「とはいえ、わたくしは日本画専攻ですので……。灯莉ちゃんの助けになれるかどうかは、微妙かもしれませんね〜」
「それでもいいんです！ 灯莉の絵を見てもらって何か少しでも気付いたことがあるなら教えてください！」
　というわけで、灯莉が持参した絵を早速見せる。
「ふじのんせんぱい、これなんだけど……どう思う？」
「拝見します。……成る程……」
　先程灯莉が描いた花束の絵。あたしの目から見たら綺麗としか思わない、綺麗としか思えない絵。それを見た藤乃様の感想は……！
「うん！ わたくしの目から見てもとっても素敵な絵に思えます！ 何か指摘する必要もないくらい！」
　あたしと灯莉はズッコケた。
「そ、それじゃダメなんだよふじのんせんぱ〜い……」
「何かアドバイスをくれませんか！？ 灯莉はずっと悩んでいるんです！」
「アドバイス、ですか……。うーん……」
　藤乃様はしばし考えるように小首を傾げたあと、灯莉の方を向いた。
「灯莉ちゃんは、描きたい絵が分からないということで悩んでいる……でしたよね？」
「うん……。今までは筆を握る度にワックワク！ してインスピレーションが止まらなかったのに……。今は新品のキャンバスよりも頭が真っ白になって何も浮かばないの……」
「そうですか……。でしたら、少し視点を変えてみましょう」
「視点を変える……？ それってどういうこと？」
「見る方向を変えるということです。ねぇ、姫歌ちゃん。姫歌ちゃんはどう思いますか？」
　藤乃様は急にあたしの方に向きを変え、絵について訊ねてきた。エメラルドグリーンの瞳がジッとあたしを見詰める。
「えっあたしですか！？ えっと……その……綺麗な絵だなって……」
「そうですね、絵はとても綺麗です。では、これを描いている時の灯莉ちゃんはどうでしたか？ どんな様子でしたか？」
「えっ、灯莉の……？」
「はい。わたくしに、そして灯莉ちゃんに、教えてあげてください。灯莉ちゃんがどんな風にこの絵を描いていたのかを」
「定盛……」
　言われてあたしは思い出した。白紙のキャンバスを前にした時の、真剣な眼差しを。普段の笑い声が聞こえない、ギュッと結ばれた硬い口端を。いつもの明るく自由で快活な灯莉とは全然違う、どこかつまらない灯莉の姿を。
「……そうですね……。灯莉らしくないって思いました」
「ぼくらしくない……？」
「いつもの灯莉だったら、きっと笑顔で絵を描くわ。でもさっきの灯莉は違った。難しそうな顔で、苦しそうに絵を描いてた。そんなの、全然灯莉らしくないじゃない！」
　思わず感情が高ぶり、灯莉の方を向きその手を握り締めた。そのまま、ありったけの想いを素直に伝える。まるであたしに普段の灯莉が乗り移ったかのように。
「そうよ！ 灯莉はもっと楽しく絵を描いてた！ もっと自由に、もっとカラフルに！ ハッピーな色彩が溢れて止まらない、楽しくて仕方ないって絵を描いてた！ このキャンバスじゃ収まりきらないような、灯莉自身が筆になって飛び回るような、そんな自由な絵を！」
「ぼく自身が筆ぇ！？ 何それぇ！」
「笑わないでよ！ あたしには確かにそう見えたんだから！」
「いやいや笑っちゃうでしょそんなの！ 相変わらず定盛ってば面白ーい！」
　この日、灯莉は初めて笑みを見せた。昨日からずっと暗い顔だった灯莉の、弾けるようないつもの笑顔。あぁ、やっぱり灯莉の顔はこれが良い。沈んだ顔も硬い顔も灯莉には似合わない。誰よりもキラキラと輝く、カラフルな笑顔。この顔こそ、灯莉だ。
「ふむ、灯莉ちゃん自身が絵筆になる……成る程……」
「あっすいません藤乃様……。変なこと言っちゃって……」
「そうだよ！ もー変な定盛！」
　あたしの言葉を聞いた藤乃様は、ニヤリと微笑み。
「もし本当に灯莉ちゃんが絵筆になれるとしたら、どうしますか？」
　そんなことを言ったのであった。

　……それから数時間後、あたし達は校庭に立っていた。校舎の壁を背にして、沢山のカラフルな水風船を膨らませながら。
「……本当に上手くいくんでしょうか？」
　注水ポンプでピンクの風船を膨らませながら、あたしは隣で作業をする藤乃様に聞いた。藤乃様は紫色の風船を器用に一瞬で結びながら、ニッコリ微笑んで言った。
「えぇ、きっと上手くいきますよ。姫歌ちゃんは、ジャクソン・ポロックという画家の『秋のリズム：ナンバー30』という作品は知っていますか？」
「え？ いえ、知りませんけど……」
「これが終わったら是非調べてみてください。灯莉ちゃんみたいな、自由で楽しい絵ですから。……さ、これで全部の水風船が準備できましたね」
　そう言って出来上がった風船をカゴに入れる。そのカゴには紫の風船ばかりが大量に詰まっていた。ざっと見ても100はくだらないだろう。
「姫歌ちゃん！ 藤乃さん！ こっちも準備できたわよ！」
「風船はここに置いておけばいいかしら？」
　手伝いに来てくれた叶星様と高嶺様が、大量の風船が入ったカゴを持ってきてくれた。赤と青に彩られた2つの風船カゴがあたし達の前に置かれていく。
「はい、ここにお願いします」
「叶星様！高嶺様！手伝ってくれて本当にありがとうございます！」
「いいのよ。何てったって可愛い後輩の頼みだしね」
「それに、とっても面白そうだったし。叶星と一緒に風船を膨らませるなんて、子供だった頃を思い出して懐かしくなったわ」
「もう、高嶺ちゃんったら！」
　いや、手伝ってくれたのは叶星様と高嶺様だけではない。
「はわわ……叶星様と高嶺様の幼馴染の雰囲気……尊いですぅ〜〜！」
「く、紅巴さん……！ 緑の風船が鼻血で赤色に染まっちゃいます……！」
「ちょっと！ しっかりしてよ紅巴！ これまでの準備が台無しになるじゃない！」
　紅巴に鈴夢、悠夏も風船の用意を手伝ってくれた。緑、黄色、紺、オレンジ、グレー……他にもアクアブルーやライトグリーンの水風船が、ところ狭しと積み重ねられていく。
「うん！ 風船の準備はこれでバッチリです。それでは皆さん、レインコートを着込んでください。あとは……秋日さん！」
『えぇ、こっちも万事問題なしよ』
　藤乃様は通信機器を使って、生徒会室の秋日様に合図を送る。それを受け取った秋日様は、窓から縦状にした巨大な横断幕の紙を地面に向かって垂らした。生徒会室から地面まで、1本の白い道ができる。これが、灯莉のキャンバス。あの子の自由な遊び場。
「さあ、あとはあなたの番ですよ、灯莉さん！」
「思いっきりやっちゃいなさい、灯莉ー！」
　あたし達の声援を受け、グラウンドに立った灯莉は、自らの愛機であるマルテを掲げて叫んだ。
「まっかせてー！」

「それでは皆さん、いきますよー！ せーのっ！」
　藤乃様の掛け声に合わせ、各々が手に持った風船を天に向かって放り投げた。色とりどりのカラフルな球体が空を舞う。
「……天の秤目！」
　それと同時に灯莉のレアスキルが発動する。物体との距離をセンチ単位で把握することが可能なレアスキル、天の秤目。灯莉はそのまま風船に銃口を合わせ、トリガーを1発引いた。続けて2発、3発、4発。続けざまに放たれたマギ弾は、寸分の狂いもなくターゲットである風船を撃ち抜き、中に入っていたインクを後ろのキャンバスに飛び散らせた。
「さあ、まだまだいきましょう！ せーのっ！」
　藤乃様の掛け声が掛かる度に、全員が風船を空に向かって投げる。上がる高さも、落ちる速さもバラバラな風船を、灯莉は1つも取りこぼすことなく全て撃ち抜き、その結果真っ白だった紙が色鮮やかに染まっていく。
「あはっ！ これ楽しー！」
　今の灯莉は、正に絵筆そのものだった。銃声が1つする度に、キャンバスに新たな色が付く。誰よりも自由で、誰よりも楽しそうな、魔法の絵筆。
「まだまだいっくよー！」
　空に虹色の雨が降る。雨は絵筆のリズムに乗って、白い紙の上で舞い踊る。色彩の軌跡を残しながら、capriccioso（気ままに）、そしてcantabile（歌うように）。あたし達が全ての風船を投げ終えたあと、そこには……大輪の華々が咲き誇っていた。

　灯莉の花束が、遂に完成した瞬間だった。

「……ありがとうございます、秋日さん。水風船の準備から校庭使用の許可まで、何から何までやってもらって」
「別に構わないわよ。あなたのためじゃなくて可愛い後輩のためだもの」
「まあ、わたくしは可愛くないって言いたいんですか？ 傷付きました。ヨヨヨ……」
「泣いているフリしてるところに悪いけど、藤乃？ このインクで汚れた壁やグラウンドの掃除は、当然あなたもするんだからね？」
「……わたくし、少々用事を思い出しました。お先に失礼しますね」
「こら、藤乃！ 逃げるなー！」
「あはは……」
　相変わらず漫才のようなやり取りを繰り広げるお二人に苦笑しながら、あたしは灯莉と2人で手を繋ぎながら絵を見ていた。
「……定盛、今日は本当にありがとう」
「なーに？ どうしたのよ、灯莉。そんな殊勝なこと言うなんて」
「だって定盛がいなかったら、この絵は描けなかったから。ぼくが描きたかった花束を描くには、ぼくが魔法の絵筆になるためには、この大空みたいに広くて大きなキャンバスが必要だったんだね！ 定盛やみんなが用意してくれた、さ。ぼくが本当に描きたいものを描けた。だからもうスランプなんてどっか行っちゃったよ！ 全部定盛のおかげだね」
「何言ってるの。アイディアを出したのは藤乃様だし、あたしは少し手伝っただけよ」
「そんなことない！ そんなことないよ！ 定盛があそこでぼくらしくないって言ってくれなかったら、こんな素敵な絵は描けなかった！ この絵は、そして定盛は、ぼくにとって特別な存在なんだよ！ だから……」
　だから、本当にありがとう。
　色とりどりの花束の下、誰よりもインクを浴びながら、誰よりもカラフルで満開な笑顔で、灯莉はあたしにそう言ったのだった。